マインドの動き、エゴというもの、脳内物質の放出メカニズム、こういったものを学んで来ました。
そして、遂にこの存在を明確に捉えることが出来ました。
説明も少し難しいのですが、脳というのは、過去の経験を元にデータベースが作られています。
そして自分というアイデンティティーの認識とリンクして、常時活動しています。常時思考として波動を発しています。
厄介なのは、このデータベースが、外界での出来事に対して瞬間的に反応し、決断をするところです。こうした話は、これまでにブログやYoutubeでもしてきました。
ぼくは厄介さは理解していたのですが、よくよく本当に嫌気がさしながら分析してみると、
すべて自分のためだということに気づきました。
自分のマインドの中に、「脳」という領域があるとしましょう。
この脳は、瞬間的に反応していますが、それは全て自分を満たすためです。
自分の得のため、自分の欠乏を埋めるために脳は絶えず働いています。
つまり自己愛によって、脳は動き、エゴとして活動しているのです。
あなたの行動のなかで脳の反応を観察してみるときっとわかるでしょう。
しかし、脳はあくまで過去のデータベースでできており、瞬間的に反応する極めて高速のコンピューターですから、実は間違った判断も非常に多いのです。この高速反応は、事故を防いだり、スピーディーに仕事をしたりするために必要なのですが、そうした機能以上にあらゆることを背負ってしまっています。あなたの幸せ、あなたの満足、あなたの問題、それらすべてに対して責務を負っているのですが、実はそこから脱することが究極の在り方になります。
脳に感謝しましょう。人生において何千回も間違い、何万回もつらい思いを共有してきました。うまくいかないことばかりでした。しかし、それらはすべて、あなたを満たしたかったから、あなたを幸せにしたかったからなのです。なにも非はありません。ただ、一生懸命でした。そして、あなたそのものでした。
この事実への気づきがとても重要でした。そして、そこから話を更に発展させますが、ぼくは、なにもない、ただ存在しているだけで究極に満たされているという覚醒にたどり着いたのです。ええ、智慧としては知っていましたが、完全に腑に落ちてはいませんでした。
この究極の状態。なぜなにもないのに満たされているのか。それは一つも不足がないからです。なにもないからこそなにも不足がない。なにも必要としないから常に満たされている。これこそ、究極のマスターの在り方といえるでしょう。
脳は小さなパートナーのようなものです。わたしたちはこれと自己を同一視してきました。
ここで偉大なマスターに置き換えて想像してみましょう。
イエスやブッダには小さなパートナーがいないかにみえます。脳はあるはずなのに。
ブッダが、悪魔の誘惑によって目の前に美しい女性の裸体が現れたとしても、これで満たせるのは脳という小さなパートナーと身体でしかありません。女性との快楽はある意味誰もができ、強い刺激ではありますが、不足のない満たされた自己の前では誘惑にはなりません。「私」という完璧に満たされた、しかしなにも持たない自己が、わざわざ身体の快楽と脳の快楽のためにそっちに行く理由がないのです。
イエスが盗賊に襲われたとき、「やばい、助けて、恐い」とかにはならなかったでしょう。脳は本能から普通はそうなるはずですが、彼は落ち着いていたはずです。なぜなら小さなパートナーがいないから。思考としては、できることを考えているし、状況も認識しているが、奪われる恐怖とかがないのでしょう。
イエスが捕らえられ、鞭打ちされ、十字架にかけられた時も、小さなパートナーであれば、「痛い、無知なものよ、誰か助けろ、なんでこうなった」と、普通なら頭の中がぐちゃぐちゃになりそうなものですが、おそらくそうではなかったでしょう。身体は痛みを感じているし、状況も理解している。しかし、脳の小さなパートナーがいないので冷静で落ち着いて受け入れている。
サンジェルマン伯爵も、社交界のパーティーに呼ばれた時、ゲストたちと同じ食事は取りませんでした。彼は水に浸したオーツがあればよかったのです。そして、カサノヴァが肉体の美貌によって女性を虜にしている傍らで、彼は話術で人々を虜にしました。ここからわかるのは、サンジェルマン伯爵は、食欲にも性欲にも興味がなかった。これは、身体とリンクされている小さなパートナーが存在しなかったからでしょう。脳の機能は人一倍優秀だったといわれますが、不足感が一切ないのです。
人間と完全なるマスターの違いはこれではないでしょうか。
欠乏感、無力感、罪悪感は、完全に自己と同一化している小さなパートナーが持っているものであり、「私」ではありません。そして小さなパートナーは、それらを背負う必要はないし、自己である意味はないので、小さなパートナーに自分のアイデンティティーを結びつける必要はないのです。
日常生活の判断・実行機能を果たしていればいいだけなのです。脳は脳内物質を出して感情を作り、自分というアイデンティティーを形成していますが、「私」からみればアスペクトに過ぎません。真の自己からすれば、数ある人生の一つに過ぎません。愛すべきアスペクトなのですが、悟りに達して、人間を卒業するなら、そのアスペクトでいる必要性はないのです。
「私」こそが究極に幸せで満たされているから。
繰り返します。なにもないからこそ、なにも不足がありません。なにも求めなくていいですし、なにも解決する必要はありません。小さなパートナーがすべてを背負っていると、それらがすべて投影されて、人生を創り、神の贈り物も入ってきにくくなりますが、小さなパートナーの活動がなければ、それらはふんだんに入ってくるので、なにもないといいながらすべてをもっていることになります。
そして、I am that I am. I Exist. 私が私であり、存在するだけで、完全に完結しています。それ故に幸せで満たされています。まさにこういうことなのです。